ちょっと勉強できました
お昼前腹こなしにあるいて来ました。
猿が落としたみかんを見ながら歩いているうちに
左近谷の入り口に来て
谷に入りました。
谷には聞いているところでは
「敏求小学校」があったそうです。
ここは
もうそ竹が密集して荒れ放題の状態でした。
戦時中は川上分校の生徒がお掃除手入れをされていたとも聞きました。
ちょっと横に石碑が建っていました。
この石碑と敏求小学校の関係はわかりませんが
献立された方のお名前を見ると
中井清左衛門二世代
世話人奥庵忠左衛門様 渡辺久左衛門様の文字がありましたことから
複数のお名前があることは村の何かに貢献された方の石碑であったのだろうと想像できます。
先日 親しい方から
ある方の半生記をいただき、その中に「敏求小学校」にかかわるであろう記述がるからと資料を頂戴し、すこし勉強させていただきました。
川上の「出城」の家老であった杉左近家の離れに隠遁していた「若狭藩士順造館教師江見三郎」様が余生を送りながら寺小屋を開いて村の子供たちに学問を教えておられたそうです。
これが川上分校の基礎となったと記述しておられます。
半生記を書かれた方の曾祖父と江見三郎さまとは教師同士の仲良しであったそうです。
石碑には「明治12年7月29日没」とありました。
きっとこの石碑の方が「江見三郎さま」であろうと思いました。
これまで聞きかじりのおぼろげでしたが具体的な資料をいただくと大切に伝えていかなければと改めて思います。
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