お聞きしました
この写真はさきの大戦のころの婦人会の皆さんです。
皆さんの中でただ一人お元気でおられる方にお聞きしました。
後列中央の美人の方です。
私の母は前列左ふたり目だそうです。
このかたは
大正3年にお生まれだそうです。
私が「敏求小学校」と思っている学校では、1年生だけ勉強され、後は川上分校で勉強されたと話されました。
このことから敏求小学校は大正10年ころまで続けられ後は私たちが勉強した木造つくりのいわゆる「分教場」が引きづいたものと思われます。
敏求小学校は寺小屋からどのようないきさつで造られたのかはわかりません。
この方の先生は「うの先生」という美しい女の先生でご夫婦で先生をしておられたそうです。
先生は勉強がよくできるとご褒美に抱いて教室を廻ってくださったそうです。
同級生は もりぞうさんと によもんのとめさん やえもんのまつさんそしてご自分の四人だったそうです。
寺小屋のあとの建物等は知らなくてかやがぼうぼうに生えていたそうです。
ということは
明治12年に江見三郎さんがお亡くなりになり、大正10年ころには建物がなかったことから「敏求小学校」の歴史はかなり長かったと私は推理します。
ちなみに
婦人会のみなさんのお名前は全部覚えておられました。
いつまでもお元気でもっと教えてください。
コメント